2022年8月5日の朝日新聞の記事によると石川啄木の書簡をはじめ、約400点ほどの森鷗外宛の書簡がみつかったという記事をネットや新聞記事(朝日新聞)で見ていたが、私が気になるのは啄木の書簡である。
鷗外宛の書簡は『石川啄木全集』(最終版は1978年(昭和53年)に筑摩書房版)発行後に見つかった書簡や短歌が20数点あり、これらは全集に未収録ものだが、先の津和野町の鷗外記念館でみつかったという啄木書簡は新発見のものなのであろうか。
速い解明と詳しい発表が待たれる。
一昨日、短歌総合誌の中の1冊である「短歌往来」2022年9月号を図書館から借りてきた。
その中に「創刊400号記念」佐美雄賞・短歌賞・出版賞の歌人」という特集頁があって錚々たる歌人の作品が載っていたが私が注目したのは安部晋三元首相の死と国葬について現代歌人たちは、どう詠んでいるかということであったが、残念ながらこの特集頁で直接に詠まれた人は菊池裕氏と高島裕氏の2氏だけであった。しかも偶然なのであろうが、若手と呼ばれるふたりの名前が似ていたことも面白い。
啄木の歌に下記の歌がある。
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誰そ我に
ピストルにても撃てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ (『一握の砂』より)
この歌の次には
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やとばかり
桂首相に手とられし夢みて覚めぬ
秋の夜の二時 (『一握の砂』より)
の歌が続いている。明治42年10月、ハルピン駅で朝鮮人の革命家によって暗殺された伊藤博文のことを詠んだ歌であるが、この歌は伊藤の死を悼んだり、賞賛して詠んだものではない。
啄木は自分にも唐突に死ぬ時が来たなら、その時はジタバタせずに死ぬ覚悟はあるという、ただ、それだけの歌なのであるが、後の研究者などの中には伊藤が「日韓併合に果たした役割を批判して云々」や「被支配者ののろいを吐き出す歌」でもないとする岩城之徳氏の明解な解釈に尽きる。過ぎたる歌の深読みは研究者の出口を失うこともある。
しかし、啄木ならでは無く、貴方はどのように歌うべきかは考えたい事件である。明確になったオカルト教団との関わりも含めて詠むのがトップ歌人たちが担うべき「社会詠」ではないだろうか。
その点で高島裕、菊池裕の2氏に敬服する。2人の歌人の視点の違いなどを読むことは読者の楽しみなので私は触れない。
「短歌」(KADOKAWA)2022年9月号に「ほっこりする歌」という特集で、井谷まさみち氏が啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」の歌を取り上げていた。
短い文章なので全文引用して置く。
「二十歳で結婚した啄木。代用教員や新聞社の校正係などとして働き、貧しい暮らしである。そんなある日、負の気持ちに句読点を打つように花を買って来て妻としたしむのである。息苦しい日常の中の一輪の花が詠む人の心にもほっと灯をともす一首。」
※この歌は人口に膾炙する歌なのでご存知の方も多いと思うが、本歌の解釈には各人各様な解釈がある。しかし、私は、此処に紹介した井谷氏ほど端的に今を生きる私たちの日常に取り込んだ解釈を見たことがない。素晴らしい解釈である。
ちなみにかつてネット歌人と呼ばれた桝野浩一氏は「友達が俺よりえらく見える日は/花を買ったり/妻といちゃいちゃ」などと現代語訳?しているが、こんなふざけ過ぎは別にして一流の研究者?の中でも首を傾げたくなる解釈をしてる人もいるが、それらはすべて歌の深読みから来た誤解と気付けないのだと思う。
このたび、毎日新聞(大阪本社版:夕刊)に倉橋健一著『歌について ~啄木と茂吉をめぐるノート~』(思潮社)が最近刊行されたことが大きな話題として載っていることをネットで知った。
私も早速取り寄せて読んでみた。先ず凄く濃い内容である。このように、「啄木と茂吉」の2冊の処女歌集軸に捉えて論じたものは長短は別にして、これまでにも何篇かあったが、倉橋氏のような感覚で捉えて論じられたものを私は知らない。
とにかく、均衡のある捉え方に私は著者の人格というか詩人としての骨の太さを感じてしまった。
啄木の夭折と大成した茂吉を同格に捉えて論じ、それを当然としたところに著者の人格を感じるのである。
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余談になるが先年、自費出版専用のような所から出た啄木論?だと著者が云う本を読む機会があった。それはあまりにつまらない内容なので紹介するのも躊躇されたと前置きして紹介したら著者から「立派な」恫喝の手紙が来た。その内容は稚拙で「削除しなければ、名誉棄損と営業妨害で訴える」という内容であったが、このような本は誰にも買ってほしく無いから喜んで即座に削除したことがあった。
さて、余談の話しは別にして倉橋健一氏が、啄木の『一握の砂』と茂吉の『赤光』を並立して論じた本書は素晴らしい内容です。どなたにもご一読をお薦めしたいと私は思う。
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朝日新聞デジタル(有料記事) 2020年7月23日 13時00分
石川啄木はダメ人間? 仮面の奥は… 山田航さん寄稿
〈はたらけどはたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る〉――遺(のこ)した短歌から清貧な印象を持たれることも多い石川啄木。現在、dアニメストアなど25のサイトで配信中のアニメ「啄木鳥(きつつき)探偵處(どころ)」では、そうしたイメージを覆し、うそつきで見えっ張り、酒飲みで女好きな人たらしの歌人として描かれている。「素顔はさらにその奥にある」と見る歌人の山田航さんに、寄稿してもらった。
「啄木鳥探偵處」の啄木はケレン味たっぷりだ。常に一手二手先を読んで、芝居がかった言動をとる。もちろんフィクションの探偵だからなのだけれど、史実の啄木にもそういうケレン味は見受けられた。
アニメには啄木以外にも野村胡堂や吉井勇などといった明治の文士たちが登場するが、当時の文士という存在を、現代の文化人と同じに考えてはいけない。文学は当時の最先端ポップカルチャーだったし、文士たちはときに新聞にゴシップが書き立てられるような、今の芸能人に近い存在だった。
「清貧の歌人なんて噓(うそ)っぱち、啄木は本当は女好きで借金魔のダメ人間だった!」というたぐいのことを話の種として聞いたことのある人は多いだろうが、そのダメ人間エピソード自体が、実は意図的に振る舞って構築した自己演出だった可能性がある。
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石川啄木記念館では下記の期間においてチラシのように特別企画展「教科書の中の啄木」を開催されます。
私たちがどのようにして啄木の人と作品に触れてきたかは啄木の没後から110年の今、あらためて知ることには大きな意味があると思います。
戦時中の教科書にも啄木の作品は登場してました。否、戦時下に入る以前から啄木の作品は登場してたのではないでしょうか。
そして終戦後からは急激に多くの啄木作品が登場していた筈だが、その登場には時代の色が濃く反映されていると私は思います。
今回の企画展を通じて私たちが今、何を学べるかは個々の生活体験によって異なることでしょう。それを家族や友人たちと語り合う機会となることは素晴らしいと思って楽しみです。
今回は啄木と直接の関係は無いのだが、ここに紹介して置きたいと思ったのは編著者が啄木研究(特に節子側からの啄木観察は鋭くて温かい眼差しを感じさせる人)の第一人者であることと、もちろん啄木とは無関係に選ばれた芝木好子の作品の中に私は啄木の妻節子の姿をを見ていたので、その点から紹介したくなった次第です。
昨日の東京新聞(2022年8月26日(土)朝刊〈平田俊子さんの3冊の本棚〉に山下多恵子さんの編著『芝木好子アンソロジー《2》美しい記憶』が紹介されていた。
《1》「恋する昭和」(2021年刊)は以前に紹介したが今回の《2》は未だ紹介してなかったので、平田氏に紹介を読んで感動した作品が私と重なる作品があって嬉しくなった。
妻子を捨てフランスに渡った亡き夫を訪ねる妻の話しの「ゴッホの墓」、そして2人の男性の間で揺れる女性の話「舞扇」の2点に私はなぜか啄木の妻節子の姿を見つつ読んでいる自分に苦笑した。
実際の小説にはしっかりと自立して生きようとする切ない昭和の女性が描かれているのだが、啄木の妻節子も捨てられながら啄木を追いかけ、ついは死に至った人である。
しかし啄木の才能を最後まで誰よりも信じたのは節子であったと思う。
機会があったら、ぜひ、この山下さんの編著で芝木作品を読んで見てください。