湘南啄木文庫ブログ

このブログは佐藤勝が個人的に収集した歌人・石川啄木に関する「よろず」情報を紹介いたします。また、私の雑多な日常的な話題や趣味の世界(落語や演劇鑑賞、読書体験)なども記してゆきますが、いずれの部門の同好の方々からのご協力なども頂くことが出来れば有難いです。なお、石川啄木に関する文献を主にした「湘南啄木文庫」のホームページ(http://www.ne.jp/asahi/shonan/takuboku/)の方も覗いて頂ければ嬉しいです。

沖縄の啄木歌碑(追加の写真:岡林一彦氏の提供)

先日紹介した沖縄の啄木歌碑について正確な情報は岡林一彦氏の沖縄タイムスに掲載された下記の投稿文を読んで頂ければ有難いです。

沖縄県那覇市にる真教寺という寺の境内に建立されているということです。

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沖縄県那覇市の真教寺の正門

 

沖縄の啄木歌碑を訪ねた友人の記事が現地の新聞「沖縄タイムス」に載った!

先月、沖縄にある啄木歌碑を訪ねた友人の岡林一彦氏から沖縄タイムスに載った投稿文と歌碑の写真が送られてきた。

「啄木と沖縄」については大西照雄著『啄木と沖縄』(2000年発行・再販も有り)という詳しい著書も出ているので興味のある方はご覧になって下さい。ここでは友人、岡林一彦氏の沖縄タイムスに掲載されて文章と沖縄にある啄木歌碑の写真、そして太西氏の著作の表紙を紹介して置きます。

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啄木研究者”上田博先生追悼号”雑誌「芸林閒歩」第6号を読んで

上田博先生が亡くなられてからもうすぐ百日が過ぎようとしている。

このたび、先生に近くに居られて度々お見舞いにも訪ねて近況などを伝えて頂いていたFさんから、上田先生が創刊された雑誌「芸林閒歩」第6号”上田博先生追悼号”を送って頂いた。

この追悼号を読みながら私は上田先生との30年にわたる交流の日々を思い出しながら、その晩年には極端に少なくなってしまった交流を思い、悔やんでいる。

私が最初に本を出した時に出版社から「どなたか、著名人に知合いの方がおられたら、序文か帯文を書いて頂けると有難いのですが」と言われた。

で、「著名人では無いけど石川啄木の啄木研究者で立命館大学教授の上田博先生(あとで本人から聞いたら文学博士でした)なら、書いてくれるかも」と応えたら、

「そういう人を著名人と言うのですよ」と言われた。

上田博先生とは啄木の文献を通して知り合ってからすでに20年ほど近く、交誼を頂いていたが、そんなに偉い人という思いもせずに気さくに話すことも出来た。

だから「ハガキで良いですから、拙著の帯文を書いて下さい」と言って頼んだら

「本のゲラ刷りを送ってください」と言われた。

そして間もなく、あの小さくて丸みのある文字で便せんに丁寧に書かれた帯文が届いた。出版社では、この帯文を読んで「石川啄木資料集」と題していた書名を急遽『資料 石川啄木~啄木の歌と我が歌と~』という書名に変更した。

先生の帯文は拙著の本文にでは無くて、私事を書いて付録のように末尾に付けた文章に終始する文章だった。

それから十数年後に先生は「私の啄木研究は完った」と言って石川啄木の研究から離れて日本近代文学という大きなテーマの中へ去って行った(と私は思った)。

ある時、JR御茶ノ水駅の近くの大衆酒場で飲むという先生に付き合っていた。その時に私は「先生はなぜ、啄木から離れるんですか」と訊いたら

「125歳まで生きるとしても半分しか無い、僕は啄木を外から眺めて見たいんだよ」と言った。

その上田博先生が昨年の暮れに亡くなられた。享年78歳であった。

啄木を離れてからは、逢う機会も少なくなってしまったが、私はいつも若き日の先生とさらに若い自分のままであったが、上田先生の晩年は病魔との闘いであったと、いつも先生の近くに居たFさんから聞いた。

雑誌「芸林閒歩」第6号「上田博先生追悼号」には,多くの人が寄せた先生への追悼文と一緒に先生のご自身の遺稿も数編載っている。

その中に「啄木の自画像、自画像としての啄木」という一文があった。その文章の中で先生は啄木研究に入った頃を振り返るように啄木の歌と人について書き、さらに同時代の文学者である夏目漱石の「三四郎の原像のひとりは啄木であってもおかしくはありません。」と書き、さらに「森鷗外の「青年」の小泉純一にもまた啄木の影が落ちてます。」と書いておられました。

私はこれを読んで、ああ、先生は啄木から離れたのでは無くて、啄木をさらに大きく捉えようとしていたのだと思った。この短い一文に先生の啄木観が凝縮されているとおもったら、分けも無く涙が溢れてしまった。

そして、あらためて先生のご冥福と、この雑誌を送ってくだっさったFさんへ感謝の思いを込めて合掌した。

※写真は上田博先生追悼号の雑誌「芸林閒歩」第6号と私の単独の処女出版となった「啄木の歌と我が歌と」の表紙です。 

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(2019年3月3日 湘南啄木文庫にて 佐藤勝)

啄木研究者”上田博先生追悼号”雑誌「芸林閒歩」第6号を読んで

上田博先生が亡くなられてからもうすぐ百日が過ぎようとしている。

このたび、先生に近くに居られて度々お見舞いにも訪ねて近況などを伝えて頂いていたFさんから、上田先生が創刊された雑誌「芸林閒歩」第6号”上田博先生追悼号”を送って頂いた。

この追悼号を読みながら私は上田先生との30年にわたる交流の日々を思い出しながら、その晩年には極端に少なくなってしまった交流を思い、悔やんでいる。

私が最初に本を出した時に出版社から「どなたか、著名人に知合いの方がおられたら、序文か帯文を書いて頂けると有難いのですが」と言われた。

で、「著名人では無いけど石川啄木の啄木研究者で立命館大学教授の上田博先生(あとで本人から聞いたら文学博士でした)なら、書いてくれるかも」と応えたら、

「そういう人を著名人と言うのですよ」と言われた。

上田博先生とは啄木の文献を通して知り合ってからすでに20年ほど近く、交誼を頂いていたが、そんなに偉い人という思いもせずに気さくに話すことも出来た。

だから「ハガキで良いですから、拙著の帯文を書いて下さい」と言って頼んだら

「本のゲラ刷りを送ってください」と言われた。

そして間もなく、あの小さくて丸みのある文字で便せんに丁寧に書かれた帯文が届いた。出版社では、この帯文を読んで「石川啄木資料集」と題していた書名を急遽『資料 石川啄木~啄木の歌と我が歌と~』という書名に変更した。

先生の帯文は拙著の本文にでは無くて、私事を書いて付録のように末尾に付けた文章に終始する文章だった。

それから十数年後に先生は「私の啄木研究は完った」と言って石川啄木の研究から離れて日本近代文学という大きなテーマの中へ去って行った(と私は思った)。

ある時、JR御茶ノ水駅の近くの大衆酒場で飲むという先生に付き合っていた。その時に私は「先生はなぜ、啄木から離れるんですか」と訊いたら

「125歳まで生きるとしても半分しか無い、僕は啄木を外から眺めて見たいんだよ」と言った。

その上田博先生が昨年の暮れに亡くなられた。享年78歳であった。

啄木を離れてからは、逢う機会も少なくなってしまったが、私はいつも若き日の先生とさらに若い自分のままであったが、上田先生の晩年は病魔との闘いであったと、いつも先生の近くに居たFさんから聞いた。

雑誌「芸林閒歩」第6号「上田博先生追悼号」には,多くの人が寄せた先生への追悼文と一緒に先生のご自身の遺稿も数編載っている。

その中に「啄木の自画像、自画像としての啄木」という一文があった。その文章の中で先生は啄木研究に入った頃を振り返るように啄木の歌と人について書き、さらに同時代の文学者である夏目漱石の「三四郎の原像のひとりは啄木であってもおかしくはありません。」と書き、さらに「森鷗外の「青年」の小泉純一にもまた啄木の影が落ちてます。」と書いておられました。

私はこれを読んで、ああ、先生は啄木から離れたのでは無くて、啄木をさらに大きく捉えようとしていたのだと思った。この短い一文に先生の啄木観が凝縮されているとおもったら、分けも無く涙が溢れてしまった。

そして、あらためて先生のご冥福と、この雑誌を送ってくだっさったFさんへ感謝の思いを込めて合掌した。

※写真は上田博先生追悼号の雑誌「芸林閒歩」第6号と私の単独の処女出版となった「啄木の歌と我が歌と」の表紙です。 

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(2019年3月3日 湘南啄木文庫にて 佐藤勝)

啄木研究者「上田博先生追悼号」雑誌「芸林」第6号

私が最初に本を出した時に出版社から「どなたか、著名人に知合いの方がおられたら、序文か帯文を書いて頂けると有難いのですが」と言われた。

で、「著名人では無いけど石川啄木の啄木研究者で立命館大学教授の上田博先生(あとで本人から聞いたら文学博士でした)なら、書いてくれるかも」と応えたら、

「そういう人を著名人と言うのですよ」と言われた。

上田博先生とは啄木の文献を通して知り合ってからすでに20年ほど近く、交誼を頂いていたが、そんなに偉い人という思いもせずに気さくに話すことも出来た。

だから「ハガキで良いですから、拙著の帯文を書いて下さい」と言って頼んだら

「本のゲラ刷りを送ってください」と言われた。

そして間もなく、あの小さくて丸みのある文字で便せんに丁寧に書かれた帯文が届いた。出版社では、この帯文を読んで「石川啄木資料集」と題していた書名を急遽『資料 石川啄木~啄木の歌と我が歌と~』という書名に変更した。

先生の帯文は拙著の本文にでは無くて、私事を書いて付録のように末尾に付けた文章に終始する文章だった。

それから十数年後に先生は「私の啄木研究は完った」と言って石川啄木の研究から離れて日本近代文学という大きなテーマの中へ去って行った(と私は思った)。

ある時、JR御茶ノ水駅の近くの大衆酒場で飲むという先生に付き合っていた。その時に私は「先生はなぜ、啄木から離れるんですか」と訊いたら

「125歳まで生きるとしても半分しか無い、僕は啄木を外から眺めて見たいんだよ」と言った。

その上田博先生が昨年の暮れに亡くなられた。享年78歳であった。

啄木を離れてからは、逢う機会も少なくなってしまったが、私はいつも若き日の先生とさらに若い自分のままであったが、上田先生の晩年は病魔との闘いであったと、いつも先生の近くに居たFさんから聞いた。

そして、このたびFさんから上田先生が創刊された雑誌「芸林」第6号「上田博先生追悼号」が送られて来た。

多くの人たちが寄せた上田博先生への追悼文と一緒に数編の先生の遺稿も載っている。

その中に「啄木の自画像、自画像としての啄木」という一文が載っている。その中で上田先生は啄木研究に入った頃を振り返るように啄木の歌と人について書き、さらに同時代の文学者である夏目漱石の「三四郎の原像のひとりは啄木であってもおかしくはありません。」と書き、さらに「森鷗外の「青年」の小泉純一にもまた啄木の影が落ちてます。」と書いておられました。

私はこれを読んで、ああ、上田先生は啄木から離れたのでは無くて、啄木をさらに大きく捉えようとしていたのだと思った。この短い一文に先生の啄木観が凝縮されているとおもったら、分けも無く涙が溢れてしまった。

そして、あらためて先生のご冥福と、この雑誌を送ってくだっさったFさんへの感謝を捧げるたねに合掌した。

※写真は上田博先生追悼号の雑誌「芸林」6号と私の単独の処女出版となった「啄木の歌と我が歌と」の表紙です。 

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(2019年3月3日 湘南啄木文庫にて 佐藤勝)