今夜(6月17日)TBSテレビで放映さた「スキャンダル日本史」で石川啄木を取り上げていたが、講師は売れっ子タレントになった林修センセだが、林センセさん、せめて元塾の先生だったとは言え、人に教える人だったのですから、公共の電波を使用する事も鑑み、もう少し勉強して上手に啄木の面白いところと、偉人として百年後の今も多く人の心を掴む文学を残した功績とのギャップなどを話したら良かったのでは無いですか?
林センセは、この番組を見ている人は、ほとんど何も分からない人だから、と決めつけていたように思いますが、視聴者をナメてはいけません!
啄木が借金をしたのは、芸者遊びで豪遊した、と決めつけてましたね、あまりにも幼稚で短絡的で、薄っぺらな知識です! せめて学術的に研究された評伝が30種類ほどありますから、その1,2点には目を通して公共の電波を使用してください。
なんですか?、啄木の友人であった金田一京助が、啄木に金を貸した所為で、お茶も飲め無くなって白湯を飲んでいた?、とんでもないことです。三流週刊誌のような解説はチンプ過ぎました。(それとも金田一京助の孫さんたち、二男の秀穂氏や長男の慶応大学教授(ドイツ文学?)の方への擦り寄りなのてすか?、慶応では貴方より凄い知識と教養を有した方々が、犇めいてますから、今のタレント業を高めるようにしてください。林センセには才能はあると思いますんで敢えて苦言を一言添えましたご容赦を。 )
最近の一般人に知られる啄木図書には93才で啄木評伝を書いた人がおります。その人の本、ドナルド・キーン著「石川啄木」(新潮社:あの本でさえも、林センセほどの間違いは無いが、少し独善的な解釈はあります。が、参考にはなりますよ。
せめて、あのドナルドさんの本くらいは読んでから、公共の電波を使って啄木を正確に話して頂きたかったですね。
あの7分ほどの放送の中で、まともな言葉を発したのは、浅田舞さんとかいう女優さんの「63人の人から借金出来たのは魅力のある人だったからだと思えた」と言った一言 だけでした。
最後に林センセ、次は、もう少しマトモな授業をしてみませんか?(視聴者をナメないでサっ!)
”啄木の時代に「釧路の海に千鳥は鳴いたか?」
”
季刊誌「釧路春秋」80号が届いた。その中に啄木研究家の北畠立朴氏が「明治時代の知人岬海岸に千鳥はいたか」という論評を寄せている。
これは啄木の処女歌集『一握の砂』の中にある下に記した1首の歌をめぐる物語です。
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しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
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この問題は、戦後まもなくから論じられているのだが、同じように啄木の歌で1番、人口に膾炙する歌でもある「東海の小島の磯の・・・」歌に出て来る「蟹」についても、その種類に及ぶ研究までされて論じられてたり、さらに「東海」とは何所かという場所の問題になると、大変なひろがりをもって喧々諤々の論じられようである。
さて、北畠立朴が今回テーマとした、千鳥は啄木の時代に釧路の海に居たのだろうか?という論考にしばし、耳を傾けて、否、目を向けて読んでみてください。
下記の便りと一緒に北海道八雲町在住の友人から啄木歌碑建立の便りが届きました。
「(略)本日(2018年6月3日)、北海道長万部の大圓寺というお寺の境内に啄木歌碑が建立されまして、その歌碑の除幕式を執り行われました。
ご覧のように見事な歌碑です。歌碑の前面には歌集「一握の砂」に掲載されている短歌「かの旅の夜汽車の窓に/おもひたる/我がゆくすゑのかなしかりしかな」が刻まれています。この歌は啄木が函館を発って札幌に赴任する夜の、前途に対する不安を歌った歌です。
碑文には「車中の一夜はオシヤマンベ駅で明けて、4月20日の日は噴火湾から上がった。」という明治41年4月20日の啄木日記の文言が刻まれています。
啄木がこの長万部を列車で通ったことを物語る歌碑です。(略)
※(編注):この歌碑は全国で183番目の啄木碑となるかと思いますが、正確な碑の数え方は石川啄木記念館にお尋ねください。