去る2020年6月13日の東京新聞(夕刊)に、土井礼一郎氏が「短歌の小窓」というコラムで啄木の「はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢっと手を見る」の歌を踏襲してみごとに今の自分を詠んでいる現代歌人の歌を例にあげて「時代を詠む」ことの素晴らしさと、先人に学ぶことの素晴らしさを綴っておられた。
また、本日、2020年6月17日のスポーツ欄のコラム「スポーツ ひと・とき」に満薗文博氏が「たまたま、石川啄木の「一握の砂」を手にしていた時だった。「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ」の歌を文章の冒頭に引用して「球児に「一握の砂」贈る」という文章を書いている。
啄木の歌は啄木没後100年以上経っても、さまざまな形で、さまざまな歌が、さまざまな人の文章に引用されて登場する。
故人となった作家の井上ひさしさんは、国際啄木学会の名誉会員であった。ある時、東京支部会で講演して頂いたことがある。その時に井上氏は「啄木の歌は日本人の心の符丁なのです」と語られた。誰の心にも思い出となる「心の抽斗(ひきだし)」があって、その抽斗の中にある思い出を呼び出してくれるのが啄木の歌なのです、という1時間を超える楽しくも深く感動しさせられた講演であった。
人の心の符丁のようになる歌を詠んだ啄木の生涯もまた、短くも波乱に富んでいる生涯であるが、啄木の歌とその人生の魅力は、今も脈々と私たちの心の中に変容しながら伝わっていることを再確認している昨今だ。