以前に友人から送って頂いた啄木資料の中に平田オリザ氏が朝日新聞(読書欄)に連載されている「古典百名山」というコラムがある。
その77回目に石川啄木の『一握の砂』を取り上げていたのであるが、その時にすぐ紹介しようと思いながら、コロナか禍の中に自分の心も、新聞の切り抜きも紛れ込んでしまっていたら、つい先日、別の遠方の友人から、同じ記事のコピーを頂いて、気になっていたので、此処に紹介するものであるが、当時の私には平田氏のエッセイに何か書き足して置きたい気持ちがあったので、今回その気になったことを記して置くことにした。
4ヵ月前の私が気になったのは、平田氏の「古典百名山」という中にあることであり、氏が紹介した記述に違和感を憶えたからである。
先ず、「古典」とひと括りにするには、啄木の歌はあまりにも現代的なのであり、以前に啄木の歌を口語訳したヘンな人も居たが、これはいずれも間抜けた歌に改悪された例として哄笑を免れないものであるが、平田氏の場合も軽い気分で読むエッセイであることを思えば、目くじらをたてるほどの文章では無いが、天下の朝日新聞に書いたものであれば、読者が誤って認識しかねないので、一言触れて置きたいと思うのである。
平田氏は、「啄木は近代短歌の完成者として後世に名を残す。」人であるが、彼が生前に残した唯一の歌集『一握の砂』の中に「収録されていない」歌と前置きして、次の一首を記している。
地図の上朝鮮国にくろぐろと
墨をぬりつゝ
秋風ぞ聴く
この歌は1910年(明治43)10月1日発行の雑誌「創作」10月短歌号に一行書きで発表されたものである。三行書きで発表したのは歌集『一握の砂』に掲載された歌であり、この歌が雑誌に載った時は一行書きであった。これは平田氏が読者へのサービス心で、歌集にある他の歌と同じように三行書きに「書き改めた」ものであると思うが、それが余分なことなのである。
このような改悪を天下の朝日新聞に載せるならば、何故、啄木はこの歌を歌集に収録しなかったのか、ということについて触れた方が読者サービスになったと私は思う。紙幅の都合なら、三行歌になど改作せずに、一行で載せ、せめて「時の強権政治が言論の統制を強化していた」ことに一言でも触れて欲しかったと思う。特に今のコロナか禍の中に紛れて憲法改正などと言い出す輩もいる昨今の政府関係者の動向をみるなら、啄木が100年前に恐れた強権政治を喚起させることを示唆してこその読者サービスだと思うからである。
また、平田氏が改作した三行の分ち書きも、歌集にある他の歌と比較して推測するなら、「地図上」で一行目として、二行目を「朝鮮国にくろぐろと」にして、三行目を「墨をぬりつゝ秋風ぞ聴く」とする方が、啄木の気持ちが伝わると思うが、これは私の推測であるから、とにかく紹介は「正確に」して欲しいと思ったのである。
(2020年8月24日記)