先ごろ、石川啄木の妹三浦光子氏の遺族から啄木の書簡などを含む貴重な資料が岩手県盛岡市の石川啄木記念館に寄贈されたという記事を読んだが、その中に啄木の妻節子が書いた問題の「手紙」も含まれているか否かは私には解からない。
先日、啄木文献を整理していたら「短歌現代」昭和40年2月号に頴田島一二郎が書いた「時間の穴~私の啄木談議~」という随想文のコピーが出て来た。
これは啄木の妹である三浦光子著『悲しき兄 啄木』(初音書房・昭和23年1月)を発行した時に、その本の原稿は自分が書いたという内容であるが、その内容には幾つかの問題がある。
注目すべきは妻節子が啄木没後に次女を出産した「千葉県八幡の浜」から啄木の妹光子に宛てた手紙で、今猶、現存している筈であるが全文の公開が無い手紙の「未公開」の部分に触れていることである。
光子の著書は後に『兄啄木の思い出』(理論社・昭和39年12月)と題して改訂版が発行されちる。
改訂の理論社版を代筆したのは川﨑むつを氏で、近年、川﨑氏の遺品の中から問題の手紙を書き写した書簡が見つかった。
しかし、この書簡に川﨑氏は欠番のあることを明確にする意図的な行為とも思われる番号をつけている。その欠番の中に書かれていたことが後の研究者にとって貴重な資料になると感じた川﨑氏の思いからなのか、真意のほどは解らない。
その川﨑氏の書き写した節子の書簡は西脇巽氏によって活字化され「青森文学」78(2009年(平成21)10月)に全文を掲載している。川﨑氏の書き写しによれば手紙は全10枚であり、欠番は7、8である。そこには頴田島の随想にあるようなことが書かれていたのであろうか。記念館が寄贈を受けた資料の公開が待たれる。
古い文献を見ているとリアルタイムで啄木と接して来た金田一京助の文献なども、あながち思い違いだとか、著者の記憶違いであろうとする実証主義の研究にも疑問が湧いてくる昨今の私である
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