私が最初に本を出した時に出版社から「どなたか、著名人に知合いの方がおられたら、序文か帯文を書いて頂けると有難いのですが」と言われた。
で、「著名人では無いけど石川啄木の啄木研究者で立命館大学教授の上田博先生(あとで本人から聞いたら文学博士でした)なら、書いてくれるかも」と応えたら、
「そういう人を著名人と言うのですよ」と言われた。
上田博先生とは啄木の文献を通して知り合ってからすでに20年ほど近く、交誼を頂いていたが、そんなに偉い人という思いもせずに気さくに話すことも出来た。
だから「ハガキで良いですから、拙著の帯文を書いて下さい」と言って頼んだら
「本のゲラ刷りを送ってください」と言われた。
そして間もなく、あの小さくて丸みのある文字で便せんに丁寧に書かれた帯文が届いた。出版社では、この帯文を読んで「石川啄木資料集」と題していた書名を急遽『資料 石川啄木~啄木の歌と我が歌と~』という書名に変更した。
先生の帯文は拙著の本文にでは無くて、私事を書いて付録のように末尾に付けた文章に終始する文章だった。
それから十数年後に先生は「私の啄木研究は完った」と言って石川啄木の研究から離れて日本近代文学という大きなテーマの中へ去って行った(と私は思った)。
ある時、JR御茶ノ水駅の近くの大衆酒場で飲むという先生に付き合っていた。その時に私は「先生はなぜ、啄木から離れるんですか」と訊いたら
「125歳まで生きるとしても半分しか無い、僕は啄木を外から眺めて見たいんだよ」と言った。
その上田博先生が昨年の暮れに亡くなられた。享年78歳であった。
啄木を離れてからは、逢う機会も少なくなってしまったが、私はいつも若き日の先生とさらに若い自分のままであったが、上田先生の晩年は病魔との闘いであったと、いつも先生の近くに居たFさんから聞いた。
そして、このたびFさんから上田先生が創刊された雑誌「芸林」第6号「上田博先生追悼号」が送られて来た。
多くの人たちが寄せた上田博先生への追悼文と一緒に数編の先生の遺稿も載っている。
その中に「啄木の自画像、自画像としての啄木」という一文が載っている。その中で上田先生は啄木研究に入った頃を振り返るように啄木の歌と人について書き、さらに同時代の文学者である夏目漱石の「三四郎の原像のひとりは啄木であってもおかしくはありません。」と書き、さらに「森鷗外の「青年」の小泉純一にもまた啄木の影が落ちてます。」と書いておられました。
私はこれを読んで、ああ、上田先生は啄木から離れたのでは無くて、啄木をさらに大きく捉えようとしていたのだと思った。この短い一文に先生の啄木観が凝縮されているとおもったら、分けも無く涙が溢れてしまった。
そして、あらためて先生のご冥福と、この雑誌を送ってくだっさったFさんへの感謝を捧げるたねに合掌した。
※写真は上田博先生追悼号の雑誌「芸林」6号と私の単独の処女出版となった「啄木の歌と我が歌と」の表紙です。
(2019年3月3日 湘南啄木文庫にて 佐藤勝)