【福祉新聞】(WEB)
ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな(『一握の砂』)
歌人、石川啄木(1886~1912)が故郷の岩手県渋民村(現・盛岡市)で眺めた南部富士の岩手山それに姫神山を詠んだといわれる。盛岡市上田松屋敷にある社会福祉法人「岩手愛児会」(藤澤昇会長)からも、二つの頂を望むことができる。全国的に珍しい医療系の養護施設だ。
児童養護施設「みちのく・みどり学園」(西山秀則園長、定員63人)と「もりおかこども病院」(米沢俊一院長、64床)は2階建ての同じ屋根の下にある。廊下伝いにほぼ自由に往来でき、療養棟の病室然とした4~8人部屋を出たら病院というイメージに近いだろうか。ここまで〝合体〟した施設は確かにザラにはない。
目の前に児童心理治療施設「ことりさわ学園」(田中仁園長、定員50人)もある。また、法人敷地に隣接する県立盛岡青松支援学校へ愛児会の小中高校生は歩いて通う。
日本中が食べるものとて十分にない戦後しばらく、岩手の暮らしは特に苦しかった。全国一高い乳児死亡率、全国2番目に多い長期欠席児童・生徒、その半分以上の800人は結核だったという。貧しい生活を子どもたちの労働が支え、結核病児は学校で毛嫌いされていた。
「病を治しながら学び、育てる施設はできないだろうか」
そう考えた一人に、岩手県社会福祉協議会の見坊和雄事務局長(1919~2012)=同県共同募金会理事=がいた。原敬・元総理(1856~1921)は縁戚にあたる。旧・米沢高工(現・山形大工学部)を卒業、陸軍航空隊に召集され、南方戦線でイギリス軍の捕虜になっている。部下らの願いを受け一足先に盛岡へ戻り、同胞の早期引き揚げに尽くした。
県社協の事務局長を10年ほどし全国社会福祉協議会(東京)へ移った。そこでも事務局長、さらに退職後は福祉新聞(東京)の社長などを歴任するのだが、「兵隊に夫をとられた農村の留守家族の苦しい実態に胸を打たれた」(『見坊和雄と岩手の社会福祉』岩手県立大社会福祉学部研究会、2014年)と当時を振り返っている。引揚促進運動は人生を社会福祉にささげるきっかけでもあった。
医療と教育、さらに福祉(暮らし)の三つをカバーするアイデアは、児童福祉法の枠をはみ出している。しかし、三位一体の「療育」(学校兼病院)プランの評価は高かった。「計画は20年早い」「法律がなければ、書けばよい」。賛否の分かれる霞が関や国会を、見坊事務局長は岩手から足しげく回った。
県のほか、全社協も予算確保の重点項目として支援。大蔵省主計官だった鳩山威一郎・元外相(1918~93)は「結核性虚弱児加算」をいわば〝特例〟として承認している。財団法人「岩手愛児会」は1956(昭和31)年に誕生、翌年には岩手大の学生やアメリカ人のボランティアも建設作業に加わり、虚弱児施設「みちのく・みどり学園」が盛岡市緑が丘に完成する。原資はお年玉付き年賀はがきの寄付金4472万円であった。
「僕は小学三年から結核で学校を休んでおります。中学三年の兄も今は良くなりましたが、軽い結核で学校を休んでおります。父が結核療養学級に入学をたのみましたが満員でことわられ…途方にくれていました」
手紙を送ってきた中1男児は開園と同時に入った。市立小・中学校の分校を併設する学園は、気兼ねせず過ごす安心の港になっていく。
そのころ世間は西日本を中心に1955年夏発覚した森永ヒ素ミルク中毒事件で騒然としていた。約130人の赤ちゃんが亡くなっている。
「年賀はがきの寄付は1枚1円。つまり4472万人の善意の詰まった〝民衆立の施設〟です」。第10代理事長にあたる藤澤会長(71)はいまなお感謝の気持ちを忘れない。「緑が丘地区は上田松屋敷地区(1977年移転)より約5キロ南で、豚小屋が多く、行政地名さえなかった。園の名を取って地名にした」と教えてくれた。
地元医師会の協力を得て1961年秋、医療施設「みちのく・みどり学園療養所」も開設。皮肉にも結核はこのころ下火に向かい、ぜん息、ネフローゼ症候群、腎炎、血友病など難治性の慢性疾患が増えていく。食生活の向上や医学の進歩だ。なんとか再建をと、同じ盛岡市にある岩手医大小児科医局から石川敬治郎医師(1932~2005)を第3代の園長に迎えたのは1967(昭和42)年であった。
【横田一】