河﨑さん、とうとうすごい本をだしましたね。私は昨夜からずっと興奮してます。
河﨑さんは、健在だったのだとわかっただけでも嬉しいのに、こんな美しい詩を今も書いていたなんて本当に嬉しいです。そして、自分を涙もろくなったのか?と疑ってしまうほど、昨夜からず~っと感動しております。
河﨑さんが私の職場の寮へ(神奈川県相模原市)ひょっこり訪ねて来たのは何時のことであったろうか。あのころも河﨑さんは関西に住んでいる詩人であった。その詩を読みながら、どんな人が書いているのだろうかと思ったことが何度もあった。
で、私は近代の詩人、八木重吉を思い浮かべた。純粋無垢な詩人の面影と河﨑洋光という詩人の面影がかさなった。
その作品世界は切ないほどに美しくて、優しい。いや、切ないのでは無くて、かなしいほどに美しいと言うべきかも知れない。
とにかく、河﨑さんが紡ぎ出す詞には、怒りや憤怒は微塵も無い。が、それらの詞の無いかわりに、優しさと清々しさがあふれている。
だから私は若いころ、自分の心に憤怒の思いが溜まった時は、河﨑さんの詩集を引っ張り出して読んだこともあった。そうすると不思議と心が落ち着いた。
昨夜の真夜中には、詩集のなかほどまで読んだ時に、あらためて本の装丁をながめていたら、背表紙の帯文のところに『「少年」の詩心』と表題のように記されていた。
あれから何十年かの時間が過ぎたのかも知れない。が、私の脳裏には、あの美しくて優しい河﨑さんの詩の詞と、その作品に一致したような涼やかな御所人形のような青年の顔をした河﨑洋充という詩人の顔が幾年経っても浮かんでくる。帯文の背に『「少年」の詩心』と記した装丁者の気持ちがわかる気がした。
直に話すと、結構きついことも言っている筈なのに、不思議なことに彼が語りだすと、その言葉は美しくて、優しく聞こえる。このたび届いた詩集『菜の花の駅』には、それらの優しい詞がぎっしりと詰まっている。
が、この優しさは「憤り」の反語なのかも知れない。
私は軽~く、驚いた。数十年も前に逢った筈なのに、河﨑さんはこの詩集の中で、あのころのままで、いや、さらに一段と優しく、切ないのでは無く、かなしいほどに美しくしい詞を紡ぎ出していたのだ。
が、やはり、この優しさは「怒り」の反語なのかも知れない。
太田登先生の解題は、河﨑洋充という詩人のすべてをみごとに語っている。太田先生は「失われた幼いころの記憶をとりもどすように、「大人になりそこねた私」がいまも変わらずにいること自体に、詩人河﨑洋充の真骨頂があるように思われる。」と。このするどい「人間・河﨑洋充」の観察にも感動した。
【つぶやき】
この詩集はアマゾンで買えるのだろうか。手にとって読んでほしい1冊なんです。
私の気に入りの頁を少しだけ写真版で載せておきます。
他に、太田登先生の「解題」と著者の「あとがき」には、石川啄木に触れるカ所もあるので、この2つの文章は私のコレクション「啄木文献収集目録」の本年度分の中に加えさせて頂きました。
※ 河﨑洋充詩集『菜の花の駅』(2018年8月15日発行)A5判/127頁/定価:2000円+税