湘南啄木文庫ブログ

このブログは佐藤勝が個人的に収集した歌人・石川啄木に関する「よろず」情報を紹介いたします。また、私の雑多な日常的な話題や趣味の世界(落語や演劇鑑賞、読書体験)なども記してゆきますが、いずれの部門の同好の方々からのご協力なども頂くことが出来れば有難いです。なお、石川啄木に関する文献を主にした「湘南啄木文庫」のホームページ(http://www.ne.jp/asahi/shonan/takuboku/)の方も覗いて頂ければ嬉しいです。

啄木研究者”上田博先生追悼号”雑誌「芸林閒歩」第6号を読んで

上田博先生が亡くなられてからもうすぐ百日が過ぎようとしている。

このたび、先生の近くに居られて度々お見舞いにも訪ねて近況などを伝えて頂いていたFさんから、上田先生が創刊された雑誌「芸林閒歩」第6号”上田博先生追悼号”を送って頂いた。

この追悼号を読みながら私は上田先生との30年にわたる交流の日々を思い出しながら、その晩年には極端に少なくなってしまった交流を思い、悔やんでいる。

私が最初に本を出した時に出版社から「どなたか、著名人に知合いの方がおられたら、序文か帯文を書いて頂けると有難いのですが」と言われた。

で、「著名人では無いけど石川啄木の研究者で立命館大学教授の上田博先生(あとで本人から聞いたら文学博士でした)なら、書いてくれるかも」と応えたら、

「そういう人を著名人と言うのですよ」と言われた。

上田博先生とは啄木の文献を通して知り合って、すでに20年ほど近くも交誼を頂いてきたが、そんなに偉い人という思いもせずに気さくに話すことの出来る、2つ年上の兄のような存在であった。

だから「ハガキで良いですから、拙著の帯文を書いて下さい」と言って頼んだら

「本のゲラ刷りを送ってください」と言われた。

そして間もなく、あの小さくて丸みのある文字で便せんに丁寧に書かれた帯文が届いた。出版社の主は、この帯文を読んで「石川啄木資料集」と題していた書名を急遽『資料 石川啄木~啄木の歌と我が歌と~』という書名に変更した。

上田先生の帯文は拙著の本文にでは無く、私事を書いて付録のように末尾に付けた文章についての文だった。

それから十数年後に先生は「私の啄木研究は完った」と言って石川啄木の研究から離れて日本近代文学という大きなテーマの中へ去って行った(と私は思った)。

ある時、JR御茶ノ水駅の近くの大衆酒場で飲むという先生に付き合っていた。その時に私は「先生はなぜ、啄木から離れるんですか」と訊ねたら

「125歳まで生きるとしても半分しか無い、僕は啄木を外から眺めて見たいんだよ」と言った。

その上田博先生が昨年の暮れに亡くなられた。享年78歳であった。

啄木を離れてからは、逢う機会も少なくなってしまったが、私はいつも若き日の先生とさらに若い自分のままであったが、上田先生の晩年は病魔との闘いであったと、いつも先生の近くに居たFさんから聞いた。

雑誌「芸林閒歩」第6号「上田博先生追悼号」には,多くの人が寄せた先生への追悼文と一緒に先生のご自身の遺稿も数編載っている。

その中に「啄木の自画像、自画像としての啄木」という一文があった。その文章の中で先生は啄木研究に入った頃を振り返るように啄木の歌と人について書き、さらに同時代の文学者である夏目漱石の「三四郎の原像のひとりは啄木であってもおかしくはありません。」と書き、さらに「森鷗外の「青年」の小泉純一にもまた啄木の影が落ちてます。」と書いておられた。

私はこれを読んで、ああ、先生は啄木から離れたのでは無く、啄木をさらに大きく捉えようとしていたのだと思った。この短い一文に先生の啄木観が凝縮されているとおもったら、分けも無く涙が溢れてしまった。

そして、あらためて先生のご冥福と、この雑誌を送ってくだっさったFさんへ感謝の思いを込めて合掌した。

※写真は上田博先生追悼号の雑誌「芸林閒歩」第6号と私の単独の処女出版となった「啄木の歌と我が歌と」の表紙です。 

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(2019年3月3日 湘南啄木文庫にて 佐藤勝)

啄木研究者”上田博先生追悼号”雑誌「芸林閒歩」第6号を読んで

上田博先生が亡くなられてからもうすぐ百日が過ぎようとしている。

このたび、先生に近くに居られて度々お見舞いにも訪ねて近況などを伝えて頂いていたFさんから、上田先生が創刊された雑誌「芸林閒歩」第6号”上田博先生追悼号”を送って頂いた。

この追悼号を読みながら私は上田先生との30年にわたる交流の日々を思い出しながら、その晩年には極端に少なくなってしまった交流を思い、悔やんでいる。

私が最初に本を出した時に出版社から「どなたか、著名人に知合いの方がおられたら、序文か帯文を書いて頂けると有難いのですが」と言われた。

で、「著名人では無いけど石川啄木の啄木研究者で立命館大学教授の上田博先生(あとで本人から聞いたら文学博士でした)なら、書いてくれるかも」と応えたら、

「そういう人を著名人と言うのですよ」と言われた。

上田博先生とは啄木の文献を通して知り合ってからすでに20年ほど近く、交誼を頂いていたが、そんなに偉い人という思いもせずに気さくに話すことも出来た。

だから「ハガキで良いですから、拙著の帯文を書いて下さい」と言って頼んだら

「本のゲラ刷りを送ってください」と言われた。

そして間もなく、あの小さくて丸みのある文字で便せんに丁寧に書かれた帯文が届いた。出版社では、この帯文を読んで「石川啄木資料集」と題していた書名を急遽『資料 石川啄木~啄木の歌と我が歌と~』という書名に変更した。

先生の帯文は拙著の本文にでは無くて、私事を書いて付録のように末尾に付けた文章に終始する文章だった。

それから十数年後に先生は「私の啄木研究は完った」と言って石川啄木の研究から離れて日本近代文学という大きなテーマの中へ去って行った(と私は思った)。

ある時、JR御茶ノ水駅の近くの大衆酒場で飲むという先生に付き合っていた。その時に私は「先生はなぜ、啄木から離れるんですか」と訊いたら

「125歳まで生きるとしても半分しか無い、僕は啄木を外から眺めて見たいんだよ」と言った。

その上田博先生が昨年の暮れに亡くなられた。享年78歳であった。

啄木を離れてからは、逢う機会も少なくなってしまったが、私はいつも若き日の先生とさらに若い自分のままであったが、上田先生の晩年は病魔との闘いであったと、いつも先生の近くに居たFさんから聞いた。

雑誌「芸林閒歩」第6号「上田博先生追悼号」には,多くの人が寄せた先生への追悼文と一緒に先生のご自身の遺稿も数編載っている。

その中に「啄木の自画像、自画像としての啄木」という一文があった。その文章の中で先生は啄木研究に入った頃を振り返るように啄木の歌と人について書き、さらに同時代の文学者である夏目漱石の「三四郎の原像のひとりは啄木であってもおかしくはありません。」と書き、さらに「森鷗外の「青年」の小泉純一にもまた啄木の影が落ちてます。」と書いておられました。

私はこれを読んで、ああ、先生は啄木から離れたのでは無くて、啄木をさらに大きく捉えようとしていたのだと思った。この短い一文に先生の啄木観が凝縮されているとおもったら、分けも無く涙が溢れてしまった。

そして、あらためて先生のご冥福と、この雑誌を送ってくだっさったFさんへ感謝の思いを込めて合掌した。

※写真は上田博先生追悼号の雑誌「芸林閒歩」第6号と私の単独の処女出版となった「啄木の歌と我が歌と」の表紙です。 

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(2019年3月3日 湘南啄木文庫にて 佐藤勝)

啄木研究者「上田博先生追悼号」雑誌「芸林」第6号

私が最初に本を出した時に出版社から「どなたか、著名人に知合いの方がおられたら、序文か帯文を書いて頂けると有難いのですが」と言われた。

で、「著名人では無いけど石川啄木の啄木研究者で立命館大学教授の上田博先生(あとで本人から聞いたら文学博士でした)なら、書いてくれるかも」と応えたら、

「そういう人を著名人と言うのですよ」と言われた。

上田博先生とは啄木の文献を通して知り合ってからすでに20年ほど近く、交誼を頂いていたが、そんなに偉い人という思いもせずに気さくに話すことも出来た。

だから「ハガキで良いですから、拙著の帯文を書いて下さい」と言って頼んだら

「本のゲラ刷りを送ってください」と言われた。

そして間もなく、あの小さくて丸みのある文字で便せんに丁寧に書かれた帯文が届いた。出版社では、この帯文を読んで「石川啄木資料集」と題していた書名を急遽『資料 石川啄木~啄木の歌と我が歌と~』という書名に変更した。

先生の帯文は拙著の本文にでは無くて、私事を書いて付録のように末尾に付けた文章に終始する文章だった。

それから十数年後に先生は「私の啄木研究は完った」と言って石川啄木の研究から離れて日本近代文学という大きなテーマの中へ去って行った(と私は思った)。

ある時、JR御茶ノ水駅の近くの大衆酒場で飲むという先生に付き合っていた。その時に私は「先生はなぜ、啄木から離れるんですか」と訊いたら

「125歳まで生きるとしても半分しか無い、僕は啄木を外から眺めて見たいんだよ」と言った。

その上田博先生が昨年の暮れに亡くなられた。享年78歳であった。

啄木を離れてからは、逢う機会も少なくなってしまったが、私はいつも若き日の先生とさらに若い自分のままであったが、上田先生の晩年は病魔との闘いであったと、いつも先生の近くに居たFさんから聞いた。

そして、このたびFさんから上田先生が創刊された雑誌「芸林」第6号「上田博先生追悼号」が送られて来た。

多くの人たちが寄せた上田博先生への追悼文と一緒に数編の先生の遺稿も載っている。

その中に「啄木の自画像、自画像としての啄木」という一文が載っている。その中で上田先生は啄木研究に入った頃を振り返るように啄木の歌と人について書き、さらに同時代の文学者である夏目漱石の「三四郎の原像のひとりは啄木であってもおかしくはありません。」と書き、さらに「森鷗外の「青年」の小泉純一にもまた啄木の影が落ちてます。」と書いておられました。

私はこれを読んで、ああ、上田先生は啄木から離れたのでは無くて、啄木をさらに大きく捉えようとしていたのだと思った。この短い一文に先生の啄木観が凝縮されているとおもったら、分けも無く涙が溢れてしまった。

そして、あらためて先生のご冥福と、この雑誌を送ってくだっさったFさんへの感謝を捧げるたねに合掌した。

※写真は上田博先生追悼号の雑誌「芸林」6号と私の単独の処女出版となった「啄木の歌と我が歌と」の表紙です。 

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(2019年3月3日 湘南啄木文庫にて 佐藤勝)

「2019年 啄木祭」のお知らせ! 5月12日(日)!

新日本歌人協会が主催する「2019 啄木祭」が下記のように開催されます。

日時:5月12日(日)13時30分開場/14時開会

場所:東京都しごとセンター講堂 

   ※(千代田区飯田橋3-10ー3)

参加費:1200円(前売券:1000円)

   ※前売電子チケット :httos://takuboku2018.peatix.com

                又は    :    httos://twitcasting.tv/kimihikoootsuru

主催:新日本歌人協会(東京都豊島区南大島3-40-8ー3F)

   ※TEL:03-9602-0802 : FAX:03-6902-0803

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2019年 啄木祭

 

啄木をめぐる人々~盛岡中学時代~ 「盛岡てがみ館」で開催中です!

「盛岡てがみ館」開催中の「啄木をめぐる人々~盛岡中学時代~」

期間=1月11日(金)~4月24日(水) ※詳細は「盛岡てがみ館」へf:id:s-takuboku:20190303212114j:plain 

 

朝日新聞が「社説」に取り上げて惜しむ”ドナルド・キーン氏の逝去”

以下の線内は朝日新聞ネットニュースからのコピーであり、写真は東京新聞が伝えたドナルド・キーン氏の訃報記事である。

 

 

 

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(社説)キーン氏逝く 愛情と苦言を残して

20192260500

 日本文学研究者のドナルド・キーン氏さんが亡くなった。

 繊細さとあふれる情熱をもって、骨太でスケールの大きな仕事に挑み続けた学究だった。

 太平洋戦争が始まる直前の1940年、ニューヨークで源氏物語の英訳に出会う。語学将校として沖縄やハワイに従軍し、戦後は京大に留学した。

 日米を往復しながら、芭蕉近松から三島由紀夫安部公房まで、多くの作品の翻訳に没頭した。古事記に始まり現代までを見渡す文学史の著作を、20年以上かけて執筆した。

 心を砕いたのは、海外にも国内にも根強くある「日本文化は不可解で異質だ」との評価を取りのぞくことだった。日本的とされる、心の内の小さな揺れや動きを表現する文学を個性として認め、そこにある感受性や美意識を愛し、同時に「私」を超える普遍性を見いだした。

 日本文学は決して日本だけのものではない。世界の人々の心を打つ不滅の作品なのだと確信し、期待してやまなかった。

 その営みが、一握りの読者しか持たなかった日本文学を世界の舞台に引きだした功績は大きい。いまや国境にかかわりなく多くの作家の作品が読まれている。素地をつくり、豊かにしてくれた第一人者だった。

 「何より人間に興味がある」

 晩年の20年余り、人物評伝に力を入れた理由を、キーンさんはそう述べた。明治天皇渡辺崋山正岡子規石川啄木ら、変化の時代を柔軟に生き抜く姿に、日本人の強さを見た。

 東日本大震災を機に、かねての思いを実行して国籍を取得した。これを、はやりの日本礼賛の文脈で語るのは間違いだ。対談で「日本人になったからには日本の悪口もどしどし言うつもりです」と語っている。

 実際、キーンさんは、バブル崩壊後の日本社会のありように辛口だった。内向き志向、他者への配慮を欠いたふるまい。憲法9条が改定の動きにさらされている現状も批判した。

 本に親しんできた日本人が、テレビやゲームに興じ、古典と向き合う時間をなくしてしまっている風潮も惜しんだ。

 そういう「ファストフード」から得られる喜びには限りがあると指摘し、人間性の探求に駆り立てる文学が再び必要とされるかもしれないと書いた。近年は、現代の私たちに通ずる孤独や、自信と不安が背中合わせの矛盾を描いているとして、啄木の作品を勧めていた。

 豊かな文化の中に可能性がある――。キーンさんの言葉を、静かにかみしめたい。

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朝日新聞の社説を読みながら、私たちは、またひとつ大きなものを喪ってしまったのだと思った。

特に、ドナルド・キーン氏は謙虚に日本文学を通して日本人の心と文化を理解しようとしていた人であった。

ゆえにか、政治家との親しい交わりは聞こえてこなかった。政治家には日本人の心を理解して、それを継承することの意義を理解する人が居ないと思ったのかも知れない。(2019年3月1日 湘南啄木文庫 主宰 佐藤 勝)